
(十二) おくのほそ道
桃印さまの新盆法要を終えると、桃青さまは急に思い立たれたように、芭蕉庵を一時閉関されることになりました。人との面会を一切謝絶して、隣接する杉風さまの別荘の奥深い一室に籠られることになったのです。留守を守る次郎兵衛や桃隣さまには、自分の居場所を明かさぬようにご指示があったようです。時々芭蕉庵に戻っていたようですが、その折、人が訪ねて来ても居留守を使われたそうです。この庵閉関に当たって、桃青さまは「閉関之説」を書いて門弟たちに配り、その理由を説明されています。
「人が色恋に身を窶し、更に長生きしたいと切望して物欲に捉われて、ものの情を弁えないのは罪深いことである。利害を捨て老若を忘れて、閑になるのが老の楽しみだ。人が来たら無用のお喋りをし、出向いて行っては家業の邪魔となるだけだ。だから閉関することにした」
と述べています。長い桃印さまの看病と苦闘した後桃印さまを亡くし、その衝撃や慟哭もやっと柔らいで、自分を静かに見詰め直そうという心境に至ったに違いありません。この「閉関之説」は草庵を閉鎖する説明でありながら、老いの楽しみを門人たちに力説されているのは、やっと蕉門の総帥としての心の安らぎが戻ってきた証だったといえます。「閉関之説」には、
朝顔や昼は鎖おろす門の垣
という句を添えられていました。
しかし芭蕉庵閉関にはもう一つ大きな理由が隠されていました。それは桃印さまへの懺悔滅罪を込めて、「おくのほそ道」を書き上げてしまう目的があったのです。近江の無名庵や幻住庵滞在の頃から書き溜めて来られた草案の整理をし、冒頭の部分を加筆されたり、さらに推敲を重ねるためだったのです。以前杜国さまの悲報を受けて、杜国さまの鎮魂曲として「笈の小文」の執筆を思い立たれましたが、この度は我が子桃印さまの魂を鎮め、安らかに成仏して欲しいとの願いを込めて、四年前の陸奥行脚紀行を仕上げてしまおうと考えられたのです。桃青さまにとっては、正に己の痛める心を救うための執筆作業だったのです。
月日は 百代の過客にして
行かふ年も また旅人也
舟の上に 生涯をうかべ
馬の口とらへて 老をむかふる者は
日々旅にして 旅を栖とす
古人も多く 旅に死せるあり
予も いづれの年よりか
片雲の 風にさそはれて
漂泊の思ひやまず
このように書き出しながら、 桃印さまの最期を想い浮かべて居られたのです。
「桃印は許六どのが見舞いに持参してくれた枕元の桜を見ながら、息を引き取ったのだった。桃印よ、お前は本当に静かに、消え入るように逝ったのう」
桃青さまはしばし筆を置いて、はらはらと涙されました。書きかけの文字が涙で滲んでぼやけていました。
許六さまは姓を森川という近江彦根藩士で、前年に桃隣さまの計らいで蕉門に入られたばかりですが、この時期頻繁に芭蕉庵を訪れ、傷心の桃青さまを慰められていました。
「おくのほそ道」は普通紀行文と呼ばれる範疇に属するものですが、旅を克明に綴ったものではなく、桃青さまの心情を深遠に表現した虚構の文芸だったのです。だから旅先の詳細を記した曽良さまの日記とも、旅先から届く私へのお便りとも、異なる個所が随所にみられます。桃青さまは実際にあった事柄よりも、自分の頭を去来する心情を優先されたのです。桃青さまのその心情とは桃印さまの魂に向かって、
「桃印よ、どうか安らかに成仏しておくれ。鬼畜生のような拙者を許しておくれ」
という悲痛な叫びだったのです。
「桃印は五歳にして実父に死に別れ、実母と生き別れ、叔父に貰われたのはよいが実際は祖母に厳しく育てられ、その義父に捨てられた上に、病弱な妻と幼い義弟妹を押しつけられて、働きに働いて病に倒れてしまったのだった。自分は妻も娶らず、本当に哀れな一生であった。桃印という俳号を持ちながら、一片の句も残さず、急いであの世に旅立ってしまった」
桃青さまは同じ思いを何度となく繰り返しては、罪深い己を責め続け、桃印さまとの架空の旅「おくのほそ道」を書き進められたのです。
「おくのほそ道」は、杜国さまの鎮魂歌「笈の小文」に倣って書かれた作品ですが、両者の違いは「笈の小文」が序破急の夢幻能の様式を借りて描かれているのに対して、「おくのほそ道」は連句形式を模し、あくまでも旅そのものを主体に置いて、紀行文の体裁を貫いていることです。桃印さまといつかやりたかったが、ついに果はたせなかった俳諧の旅を心に描きながら、桃印さまとの虚構の二人旅を創り上げようとされたのです。冒頭には旅の主題が示されています。「時の流れは無限に止まることを知らず、船頭や馬子たちでさえ日々が旅であって、旅を塒にしている。そして多くの古人も旅に死んだ。予も……」といって桃青さまは自分も旅に命を捧げたいと言っているのです。そこには明らかに、人生という旅の途上にあって、若くして亡くなった桃印さまが重ねられているのです。
桃青さまはかつて「紀行文というのは雨が降ったの、昼から晴れたの、どんな松があって、何という川が流れていたのと誰もが書くが、そんなことより黄山谷の奇妙や蘇東坡の新味が欲しいものだ」と言っています。その意味では「おくのほそ道」は伝統的な紀行文を忠実に踏襲し、新味に欠けているように見えますが、そこには連句の形式を全文に採り入れ、桃青さまにしか書けない独特の旋律が息衝いています。推敲途中の草案の段階で何度か読ませて戴きましたが、私は後の世にいつまでも残る名文であると確信致しました。旅の始めから終焉まで五十韻を意識した神祗・釈教・恋・無常・羇旅・述懐など五十句が散りばめられ、心憎いまでに計算された構成となっています。例えばこの旅は千住で舟から上がって人々と別れ、大垣では人々に送られて舟に乗るところで終わっています。また千住で実際に詠まれた留別句「鮎の子の白魚送る別哉」を、
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
という最終句に呼応させるために、
行く春や鳥啼き魚の目は泪
に置き換えています。 この「行く春」と「行く秋」の照応を通して、桃青さまは常日頃心に抱いていた無常観を表現しようと試みられたのです。「この世の一切は旅であり、旅人のように絶えず移り変わって行くこと、すなわち流転していくことこそが、この世の不変の真実である」というのです。かつてより門弟たちに語っておられた「不易流行」の桃青さまの思想が語られているというべきでしょう。この「行く春」と「行く秋」のちょうど中間に、
夏草や兵どもの夢の跡
という時代の流れになお変わらぬものへの思いを込めた句が据えられているのは、見事というほかありません。
そして「おくのほそ道」は照応ということを基本に置いてしっかりと組み立てられ、全体の均衡を保っています。旅の頂点が平泉だと致しますと、前半には明るく表の松島を置き、後半にはやや暗い裏の象潟が配されています。さらに前半の那須野の小姫あかねに対して、後半の市振りの遊女が語られ、日光の仏五左衛門に対して福井の等栽といった対応する人物を登場させています。その為に事実が曲げられたり、書き加えられたり、削られたりと何度となく書き改められ、桃青さまの心の赴くままに文章が自在に躍動しているといえます。
このように苦心に苦心を重ね、何度となく書き改められて実に五年の歳月を費やした「おくのほそ道」は元禄七(一六九四)年の春に完成致しました。しかし、これを直ぐに刊行される気持ちは毛頭なく、長年に亘って苦労を掛けっ放しの郷里の兄上さまに進呈するために、能筆家素龍さまの手によって清書されました。
「おくのほそ道」には、旅に発つ前に詠んだ「草の戸も住替る代ぞひなの家」という、平右衛門に譲った庵の華やいでいる様子を詠んだ句以外に、五十句が載せられています。陸奥の旅は百五十日余りに及んだのですから、その途上ではもっと沢山の句が詠まれたはずです。中には構成上やむなく曽良さまの名を借りて「おくのほそ道」に掲載された句もあるようですが、それを除きましてもここに収められた句は、桃青さまの全生涯の句の中でも屈指の名句が厳選されているといえます。中でも先の旅の出発、終焉、中間の三句のほか、
五月雨の降り残してや光堂
閑さや岩にしみ入る蝉の声
五月雨をあつめて早し最上川
荒海や佐渡によこたふ天河
などは「おくのほそ道」に欠かすことのできない句です。
「おくのほそ道」がほぼ完成をみた十一月初旬に、桃青さまは芭蕉庵の閉関を解かれました。閉鎖期間は四か月足らずでしたが、 桃青さまはやっと大きなお仕事を終えられた安堵感からか、大変ゆったりとした暮らしを楽しまれているご様子でした。若い頃、新七郎家の台所方として習った料理の数々を、次郎兵衛に教えたり、庵の近辺を散策したりと、のどかな日々を送られていたようです。
(十三) 父子の二人旅
素龍さまの名筆「おくのほそ道」を懐に、元禄七(一六九四)年五月、五十一歳になられた桃青さまは次郎兵衛を伴って帰省の旅に出られることになりました。桃印さまの看病と死を巡る心労と、老いから来る躰の衰弱が重なり、その上持病の疝気と痔疾もかなり悪化し、桃青さまの躰はとても旅に耐えられる状態ではありませんでした。お医者さまや門弟たちは頻りに旅を思い止まられるよう説得されましたが、頑として聞き入れませんでした。どんなに躰が弱っていても、旅そのものが生命であり、旅のない人生では生きている価値がないと考えられていたのです。それに旅に死ぬ覚悟は疾に出来ていたのです。
桃青さまは陸奥の旅の頃から、盛んに「軽み」を門弟たちに説かれるようになっていました。「軽み」とは「高く心を悟って、俗に帰る」ことで、高い境地に至りながら、重々しくならない句の極意だというものです。しかし、この軽みが門弟たちに理解されず、其角さまや荷夸さまがそっぽを向き、木因さまが離反していったようです。理解者は江戸の杉風さまや近江の門人たちでした。躰の衰弱よりも桃青さまは、自分の詩精神が理解されない事の方が応えたようです。しかし、旅をしていれば一切を忘れることができ、これまで身にまとわり着いた邪気を捨て去り、新たな己に生まれ変わることができると考えられたのです。
桃青さまは十年前の野ざらしの旅を思い起こしながら、いよいよ今度こそ屍を晒す覚悟を決めていたようです。思えば、「野ざらし紀行」は門人千里さま、「笈の小文」では杜国さま、「おくのほそ道」では曽良さまを随行され、いずれも俳諧の旅だったのです。しかし今回は次郎兵衛を同伴しているのは、生涯旅人として旅を栖とした父の死にわが息子こを立ち合わせたかったのです。
桃青さまは旅立ちに際して、私と二人の娘を深川の芭蕉庵に移住させて下さいました。これまで家族を顧みなかった罪を一気に取り戻すかのようでした。この頃私の病もかなり進行していましたので、それも気遣ってくれた措置だったのです。草庵はこれまで私たちが住んだことのない豪華な佇まいでした。桃印さまの生前、しばしば訪ねていましたが、見ると住むとは大きな違いで、病人にとっては本当に良い転地療法となりました。
品川まで見送られた桃隣さまたちに、桃青さまは、
麦の穂を力につかむ別れかな
という留別句を認したためた扇を差し出されました。この句は後に「麦の穂を便につかむ別れかな」と改修され、門人たちに伝えられましたが、初案の方が旅の悲愴感が伝わってきます。麦の穂はとても体を支えられるものではありませんが、その穂を掴むような頼りない己の姿が、この句に表現されており、まるで今生の別れを感じさせます。曽良さまは箱根まで同行されましたが、ずっと駕籠に乗ったままで、その駕籠ですら辛そうだったといいます。
そんな覚束ない躰にも拘わらず、病状が悪化の一途を辿る私を気遣ってか、桃青さまは旅先から頻繁にお便りを寄せてくれました。その中には次郎兵衛を思いやる父親の気配りがそこここに認められました。「戻り馬があって、安かったので次郎兵衛を乗せた」とか、「次郎兵衛は肩も足も共に強くなった」とか、十九歳にもなった次郎兵衛をまるで幼児のような書きっぷりでした。私はご自身が馬に乗ればよいものをと思いましたが、桃青さまは馬にも乗れない状況でした。
桃青さまと次郎兵衛は五月二十八日に伊賀上野に着いたのですが、桃青さまは次月の閏五月五日になっても旅の疲れがとれず、実家に臥されていたようでした。素龍筆の「おくのほそ道」を兄上の半左衛門さまに贈られてほっとしたのでしょうか。次郎兵衛は初めてみる父母の故郷の静かで美しい町並みに感動したようです。赤坂町の松尾家と桑町を往ったり来たりしている様子や、玄蕃町の士大将藤堂新七郎さまを桃青さまに連れられて訪ねたことなどを誇らしげに書き綴ってきました。私はこんな桃青さまや次郎兵衛の便りを、まさやおふうに何度も読んで貰いながら、次第に自分の命の炎が燃え尽きて行くのを感じました。朧な頭の中で、桃青さまから与えられた幸せを感謝して居りました。
寿貞は元禄七(一六九四)年六月二日に、江戸深川の芭蕉庵にて息を引き取った。享年四十二歳だった。芭蕉はこの訃報を京都嵯峨の落柿舎で受け取り、即刻次郎兵衛に去来の下僕をつけ江戸に向かわせた。江戸では桃隣が施主を務め、深川の本誓寺ですでに仮葬儀を済ませていた。一方芭蕉は松尾家や寿貞の実家に寿貞の死を知らせ、同時に新七郎家の家臣中尾源左衛門にも連絡をした。中尾氏は俳号を槐市と称し蕉門の門弟で、新七郎家には二代目良精から三代目良長に仕えた長老の家臣である。芭蕉は新七郎家に対して、昔の主従関係以上に、何故か特別の配慮をしていた。あるいは寿貞と新七郎家の繋がりを知っていたか、薄々感づいていたのかも知れない。
次郎兵衛は深川から寿貞の遺髪を携えて、とんぼ返りに東海道を駆け上がり、芭蕉とは膳所の義仲寺で落ち合って郷里に向かった。伊賀上野では中尾氏が施主となって、寿貞の葬儀が執り行われ、中尾氏の菩提寺である寺町の念仏寺に、寿貞の遺髪が埋葬された。中尾氏は二代目当主良精と寿貞の関係を知る唯一の生き証人で、良精の意を慮ってか、三代目良長の指示あるいは内意を受けてか、寿貞の親代わりを務めたと考えられる。
数ならぬ身そなおもひそ玉祭り
芭蕉は寿貞の葬送に際して、このような追悼句を詠んでいる。これは芭蕉が釣月軒で寿貞に求婚した折に、寿貞が口にした言葉を覚えていて「数にも入らぬ身なんて思ってはいけないよ」と、御魂に向かって呼びかけている句だ。この寿貞の死から僅か四か月後に、芭蕉自らが後を追うように亡くなっているので、やはり寿貞は芭蕉の最愛の妻であったのではなかろうか。
芭蕉は晩年の俗世を超越した生き方や、その句のわび・さびといった深遠な趣、あるいは俳文や紀行文の格調の高さから、俳聖と呼ばれ、神聖化されていた時期が長く続いた。真の俳句は芭蕉に始まり、芭蕉で終わったという極端な意見さえあった。ところが芭蕉没後二百十数年も経った明治四十五年に沼波瓊音が「芭蕉に妾あり」という一文を発表し、寿貞の存在を紹介してから、芭蕉の妻帯説が世に知れることとなった。これは風律の「小ばなし」に記述されている「寿貞は翁の若き時の妾にて、疾く尼となりしなり。次郎兵衛もつかひ申され由よし。浅談」を根拠に紹介したものである。風律は野坡の弟子であり、野坡は芭蕉の門弟で「炭俵」の編者を務めた人である。野坡は浅生庵とも名乗っていたので、浅談すなわち野坡の談話として記述したのである。従ってこの話は満更出鱈目であるまいというのである。浅談などと謎めいた書き方をしているのは、すでに風律の頃には芭蕉は神聖化され、妻子が存在したなどとは、とても公言できる雰囲気でなかったからだと想像できる。
この沼波瓊音の発表に当時の俳壇や芭蕉研究者たちは俄に沸きかえり、中には小躍りして喜んだ人も居たと言う。芭蕉は神でも聖でもなく、煩悩熾盛の人であったと判明したからである。しかし、寿貞に関する記述や資料は極めて少なく、芭蕉とは少なからず深い関係にあった女性であるという以外に、現在でもなおその詳細は謎のベールに包まれたままである。数少ない文献から沢山の人が推理や想像を交え、さまざまな説を唱えている。従って、この小説「寿貞」はあくまで私の発想によるフィクションであり、異論も大いにあることと思われる。しかし、全く根拠のない作り話ではなく、私が半世紀近く暖めてきた題材で、懸命に集めた資料と足でかせいだ取材を基に、ある程度真実に近い作品に仕上がったと自負している。(完)

(参考文献)
饗庭 孝男 「芭蕉」 集英社
阿部喜三郎 「松尾芭蕉」 吉川弘文館
麻生 磯次 「若き芭蕉」 新潮社
〃 「芭蕉物語」 (上)・(中)・(下) 〃
高橋 庄次 「芭蕉伝記新考」 春秋社
雲英 末雄・高橋 治 「松尾芭蕉」 新潮社
田中 善信 「芭蕉二つの顔」 講談社
日本文学研究大成 「芭蕉」 国書刊行会
小島政二郎 「詩人芭蕉」 彌生書房
清水 基吉 「俳諧師芭蕉」 青蛙書房
廣末 保 「第四巻・芭蕉」 影書房
森 修 「近世文学・芭蕉」 和泉書院
永田龍太郎 「松尾芭蕉全発句集」 永田書店
富田 泰 「芭蕉文集」 新潮社
嵐山光三郎 「芭蕉の誘惑」 JTB
稲垣 安伸 「松尾芭蕉人と文学」 勉誠出版
森崎 益夫 「松尾芭蕉は忍者か」 MBC21
横浜 文孝 「芭蕉と江戸の町」 同成社
堀切 実 「芭蕉の門人」 岩波書店
萩原恭男校注 「おくのほそ道」 〃
草加市広報広聴課 「奥の細道の世界」 草加市
上野市観光協会 「観光100問百答」 上野市
杉浦日向子 「お江戸風流さんぽ道」 世界文化社
乾 宏巳 「江戸の職人」 吉川弘文館
深谷 克巳 「津藩」 〃
市川 安司・遠藤 哲夫 「荘子」 明治書院
蜂屋 邦夫 「荘子=超俗の境へ」 講談社
武田 鏡村 「禅のことば100」 三修社
澤木 興道 「禅とは何か」 誠信書房
「江戸古地図」 上野市所蔵
「復元・江戸情報地図」 朝日新聞社
「上野城下絵図」 上野市図書館
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