寿貞1

寿貞2

寿貞3

寿貞4

寿貞5

寿貞6




(一)出会い

 私の名は貞と申します。後に剃髪得度を致しまして、寿貞という法名を授かりました。私が生を享けましたのは承応二(一六五三)年の十二月で、生家は伊賀上野の町はずれ柔町という所の小体な住まいでした。上野は津藩三十二万石の支城で、江戸期初代藩主藤堂高虎が築城と並行して計画的に造られた城下町であり、綺麗な碁盤の目に仕切られていました。南北に東・中・西の三本の縦町が通って居り、東西にはお堀に平行して北から本町、一之町、二之町が伸び、大小の店が軒を連ねていました。しかし私が生まれた柔町は家もまばらで道筋も通っておらず、お城からは南東の方面に当る町の郊外でした。家のそばには小さな川が流れており、幼い頃には野花を摘んだり、蛍を追っかけたりして遊んだものです。それでも家から中心街までは、子供の足でも小半刻もかからない小じんまりとした町でした。
 私には二歳違いの姉と一歳違いの弟がいましたが、父は弟が生まれて間もない頃に亡くなったそうで、ずっと母と姉弟の四人家族の生活でした。母の手内職だけが唯一の収入源で、父の死後母は三人の幼児を抱えて大変苦労したのではないかと思いますが、私たちはそれほど惨めな思いもせずに暮らしていました。三人の姉弟の中で私だけがあまり母に似ていないので、一度母に聞いたことがあります。母はちょっと躊躇するように間を置いてから、「お前は父さんにそっくりじゃよ」
 という返事でした。亡父の面影を知らない私は「そうか私は父に似てるのか」と簡単に納得し、それ以降顔かたちのことを口にしたことはありません。

 上野の城代藤堂采女さまは領民の教育に大層熱心な方で、武家の子弟は学問指南所に入り、町屋の子供は寺子屋に通うのが極く当り前のことでした。上野の町には十指に余る寺子屋がありそれぞれ教える内容が少しずつ違っていましたが、私はその一つで読み書きのほか、礼儀作法や裁縫などを習っていました。後日奉公にあがりました時に大変役に立ちました。私が十二歳の時、姉は一之町中之縦町東入ルの「筒井屋」に年季奉公にあがりました。筒井屋は戦国武将で伊賀上野城主であった筒井定次にゆかりのある人が始めた伊賀焼を商う大店でした。筒井定次は茶道に精通した人物で、古田織部らの宗匠達と親交も深く、当代を代表する茶人であったとのことです。この殿さまはお城の中で伊賀焼を焼いたとも伝えられており、それを「筒井伊賀」といって珍重されているそうです。

 私が十五歳になった年の晩春のことです。私は東日南町にある裁縫塾から帰ってきて、いつものように元気よく格子戸を開け、

「只今、戻りました」

 と声を張りあげましたが、玄関の三和上に男物の草履が揃えられているのをみて、ハッと息を飲み込みました。

「お貞かい。ちょうどよい。こちらに来てご挨拶をおし」

 客間から母の声がかかったので、私は荷物を廊下の隅に置いて、恐る恐る障子を開けました。そこには見慣れた顔がありました。毎月必ずわが家を訪れ、玄関先で母となにやら簡単なやりとりをして帰って行く姿を何度となく見掛けていたからです。たまには外で遊んでいる私や弟の頭を撫でて、にこにこしながら遠ざかって行くこともありました。その人の身分やご用向きを母から聞いたことはありませんが、恐らく母の内職の関係の人だろうと見当をつけていました。その人が今日に限って神妙な顔で鎮座していました。

「このお方は藤堂新七郎家からお遣いにあがられた方です」 母は私に目で挨拶を促すようにして言いました。

「いらっしゃいませ。貞でございます」

 と私は両手をついて深々と頭を下げました。

「新七郎家に仕えて居ります佐吉と申します。本日はご当主良精さまの名代として参上致しました。実はさきほどから母上とご相談申しあげていたのですが、あなたさまのご奉公についてお願いに上った次第です」

 私の奉公という言葉を聞いて私はびっくりしました。三年前姉が十四歳で奉公に出ていますので、自分もそろそろお声がかかることは覚悟していたものの、こんな形で突然に切り出されたことに面喰ったのです。それにしても、この人が母の内職関係でなく、新七郎家の人であったことも驚きでした。毎月何のために来訪してきていたのでしょうか。

「唯今佐吉さまから一通りのお話を伺いましたが、ご当主さまのお心遣いに感謝し、私としてはぜひお願い致したいと思っているのですが、お前の考えも聞いて置きたいと思っていたところです」

 と言って母はそのあらましを説明してくれました。それによりますと、奉公先は玄藩町の藤堂新七郎家の下屋敷で、直接お仕えするのは敷地内にある家臣宅の一軒だというものでした。家臣の名は松尾宗房という二十四歳になる独り者で、務めの内容は炊事、洗濯、掃除などの家事一切をこなすことだと言うことでした。独り者というところに多少不安を感じましたが、奉公先が津藩伊賀付士大将で五千石の禄を食む藤堂新七郎家となると、町屋の娘にとっては高嶺の花であることも充分承知していました。まして亡父が建築関係の出職人で、母は縫子の手内職で生計を立てているような家の娘が、士大将の家に武家奉公できるのは夢のような話であり、母がぜひにと望んでいるのは当然のことでした。

「よろしくお願い致します」

 母の話がひと区切りついたところで、私は早々に頭を下げて、承諾の意を示しました。その日からしばらくした寛文七(一六六七)年五月朔日、私は風呂敷包みを一つ抱えて奉公にあがることになりました。新七郎家の家臣宅は下屋敷を囲むように西側と南側に十二軒並んで居り、松尾さまのお宅は西側の北から四軒目に位置していました。家臣宅といっても家族や使用人が住めるに充分な広さがあり、独り住まいには贅沢な感じでした。贅沢というより広過ぎて閑散としていました。奉公にあがって初めて知ったことですが、松尾さまは新七郎家の家臣ではなく、下屋敷の台所方の奉公人とのことでした。他の家臣宅には玄関に槍吊りがあり、床の間には刀置きが備えられていましたが、松尾宅にはそのような武家の調度品は一切ありませんでした。どうして家臣でもない人がここに住んでいるのか不思議でしたが、もっと分らないのは台所方というのにたまにしか下屋敷に出向かないことでした。ほとんど毎日書斎に籠り切りで、書き物をされたり、書物を読まれたり、原稿類の整理をされたりしているご様子でした。

 宗房さまに初めてお目にかかった時の印象は、当初抱いていた不安をの一掃するものでした。狼のようなギラギラした独身男性を想像していましたが、宗房さまにはそんな雰囲気は全くなく、兄か父親のような近親感を抱かせるものでした。背は高からず低からずやや痩身で、顔はそばだち(角が立っていて)、眉毛は長く、目は切れ長で細く、鼻は鈍骨の双柱(大きくあぐらをかいて居り)、耳たぶは厚く大きく、小さめの口に唇は薄く、顔色は薄黒くくすんでいるようでした。そのせいか二十四歳にしてはやや更けた感じで、決して俗にいう美男と言える容姿ではありませんでした。しかし眼光には力が漲っており、頭脳の明晰さと内に秘めた意志の強さが伺えるようでした。人柄は至って温厚で、底抜けに明るい性格であることもすぐに知ることができました。

 日が経つにつれて、近所の妻女やお女中たち、さらにご用聞きの話などから、いろいろの事が分ってきました。宗房さまはご当主の信頼が厚く、亡き良忠さまの遺稿整理に励んでおられるとのことでした。良忠さまはご当主の三男ですが、長男の良春さまは十三歳で夭折し、二男竹鶴さまも早世したため、特に大きな期待をかけられていたのです。その期待に応えて良忠さまは士大将としても文学者としても大いに嘱望される存在となり、三代目新七郎を継ぐに充分な素質を備えていました。ところが、昨年四月に二十五歳の若さで他界されたのです。ご当主は和歌を嗜まれ、宗徳という号を持つ文人でしたが、良忠さまは宗正を名乗る俳人で、父を凌ぐ才能を持っておられたようです。後に良忠さまは北村季吟の門下に入り、蝉吟という俳号を綬けられ、伊賀俳壇の中心的存在として君臨していたのです。宗房さまはこのご当主親子の「宗」を戴いたわけです。

 宗房さまは十四、五歳の頃から二歳年上の良忠さまの子小姓として仕えていたとのことです。子小姓というのはいわば良忠さまの遊びや学問のお相手をする役であり、宗房を音読みにした「そうぼう」という俳号で一緒に俳諧も嗜まれていたようです。二歳年下の宗房さまが良忠さまの相手を充分にこなしていたということは、いかに優秀であったかという証です。良忠さまが亡くなられた直後、宗房さまはご当主に致仕を申し出ましたが許されず、これまで通り台所方奉公人として、良忠さまの遺稿整理の任務を与えられたのです。宗房さまは自分が武士に向いて居らず、無足人(郷士)の次男という低い身分では武士になっても先行きに大きな期待が持てないこともあって、学問か文学の道で身を立てたいと考えていました。蝉吟良忠さまの遣いとして京の都にしばしば北村季吟を訪ねることがありましたので、季吟の学究の姿勢やその生活ぶりに一種の憧れのようなものを持っていたようです。だからご当主から遺稿整理の話があると、即座に引き受けられたのです。しかし、遺稿を整理して、俳諧誌や撰集に投稿するといっても、残された俳諧や俳文がそれほど多くあるわけではなく、ほとんどは自分の俳諧修業に当てていたようです。ご当主もその辺のことは充分に承知しておられた上で、家臣宅を提供し、私という女中までつけるという破格の待遇を与えられたのは、恐らく宗房さまの卓越した才能を認められていたからに違いありません。

 宗房さまは朝夕の食事どきやお仕事に疲れた時などに、私によく俳諧についてお話をして下さいました。俳諧というのは「俳諧の連歌」が詰まって俳諧と呼ばれるようになったとのことです。俳諧とは元々滑稽ということを意味し、江戸の代になって松永貞徳という人が笑いを表現する文学として提唱したことから盛んになったというのです。貞徳は承応二年に没したと宗房さまが話されましたが、私はその年の暮に生まれていますので、話を聞きながら、もしかして私の貞は貞徳から戴いたのではないかと思いました。ですが出職人の父にとてもそのような学識があったとは思えませんので、これは多分偶然の一致だろうと思い直したりしていました。

 貞徳が提唱した貞門俳諧では俳言といって、和歌や連歌ではあまり用いない俗語や当世言葉などを使うことを奨励しているとのことです。宗房さまはわしもこんなのを詠んだと言って「降る音や耳も酸うなる梅の雨」という句を見せてくれたことがあります。梅雨のじめじめした雨の音を聞いていると耳まで酸っばくなるというのです。耳も酸うなるとは聞き飽きてしまうという俗語を織り込んだのだそうです。

 奉公人は盆と正月の薮入り以外、近くに実家があっても里帰りはできませんが、宗房さまのお話を聞いたり、宗房さまの身の回りのお世話をすることが楽しくて、私は一度も寂しいと思ったことがありませんでした。宗房さまの人柄が解るにつれて一層その想いが募るのでした。宗房さまの右頬の下には小さなうすいも(薄いあばた)があり、考え事をする時は必ずそこを触れる癖がありました。そこは少し硬くなっているようでした。お話の途中でするそんな宗房さまの仕草が今も目に焼きついて離れません。

 宗房さまはまたお酒が強く、唄が大層お上手でした。俳諧仲間が集ってお酒が入りますとよく唄いました。大抵は小唄や端唄を口三味線で調子をとりながら唄いましたが、時には戯歌や猥歌が飛ぴ出すことがありました。「人の娘と新造の舟は、人も見たがる乗りたがる」といった私には刺激の強すぎる唄を大きな声で唄われるので私ははらはらしたものです。宗房さまはまた冗談や駄洒落もよく口にされました。食事をしながら「わしはふんどしの川流れじゃ。くいにかかったら離れない」と食いしん坊の自分を茶化してみたり、「弘法も木から落ちる。猿も筆の誤りだ」などと言って私を笑わせたりしました。

 私が奉公にあがって二年ほど経った或る日、近所の噂好きのお女中に、

「宗房さんは大層女癖が悪く、手が早いそうだが、あなたは大丈夫か」

 というようなことを遠回しに聞かされたことがあります。宴席できわどい話をされることがあり、その方面の経験はかなり豊かだという印象を受けていましたが、奉公人の私にはそんな素振りすら見せたことはありませんでした。宗房さまは人一倍感受性が強く、美しいものに感動し易いお方でしたので、この感情の起伏の大きいところが、誤解される原因だったのかも知れません。そして宗房さまは大変自分に正直に生きていましたので、それが災いして一度ならず悶着を起したのだろうと思います。奉公人とはいえ郷士の出身で、苗字帯刀を許され忠右衛門という武名まで授かっており、しかもご当主の絶大な信頼を受けておられる宗房さまが、物の数にも入らない私ごときに手を出すはずがないと思っていました。反面、同じ屋根の下にたった二人で暮らしているのになぜと、ちょっぴり切ない想いが湧いて来ることも一度ならずありました。その頃の私は宗房さまの人となりにすっかり魅了され、恋ごころが芽生え始めていたのです。ところが手が出るはずのない宗房さまの手が出される時が来たのです。

 

  (二)夫婦の契り

 

 それは私が十八歳を迎えた寛文十(一六七〇)年の正月、里帰りから戻ってきた日の夜のことでした。私はその夜とあくる日の朝の出来事を生涯忘れることなく胸に抱いています。いつものように夕餉の支度を調え、何時でもお燗ができるように鉄瓶を火にかけ、宗房さまのご帰宅を待っていました。その頃には宗房さまの所望により、私も宗房さまと一緒に食事を戴くようになっていました。ところがその日はいつまで待っても宗房さまは戻って来られません。私は実家で辰の刻(前八時)に雑煮を食べたままでしたので、空腹でお腹の皮が背中にくっ付きそうでした。やっと戊の刻(午後八時)近くになって宗房さまはご帰館されました。かなり召し上がっているご様子で足元がふらついていました。私を認めると、

「あれっ、お貞の薮入りは明日までじゃなかったのか」

 と少し呂律の怪しくなった声で呟かれました。

「お食事は如何なさいましょう」

 と私が申しあげますと、

「ああもう済ませて来たが、お貞はわしを待っててくれたのじゃろ。お貞や、早く召し上がれ。待ちくたぴれてさぞ腹が減ったろう」

 と言って、お膳の前にどっかりと胡坐をかいて坐られました。坐っても身体が前後左右に揺れているようでした。

「お冷をどうぞ」

 と私が水瓶から冷たいお水を汲んで差し上げますと、美味しそうに一気に飲み干して、

「ああ旨い。お貞の水は実に旨い。そうだ、今日は正月だからお神酒にするか」

 とおっしゃるので、私は早速お燗をつけお酌を致しました。その一杯をゆっくりと召し上がってから、盃を二、三度振って私に差し出されました。

「さあお貞、わしとそなたの固めの盃じゃ」

 と叫ぶように言って、私の手にしている盃になみなみとご酒をつがれました。勢い余ってお酒が溢れ出ましたが、そんなことに頓着する様子もなく、私をじっと見詰めておられました。私は随分迷いましたが、思い切って生まれて初めてのお酒を戴きました。

「やあやあ、なかなかの飲みっぶりじゃ。駆けつけ三杯だ。それっ」

 とまたも溢れんばかりのお酒をつがれました。宗房さまの盃は小さな湯飲み程の大きさで、一杯でもかなりの量だったのですが、私は怖いもの知らずに二杯目も勢いよく飲み干していました。暫くすると酔いが早飛脚のように身体中を駆け巡り始めました。空腹のためなのかそれとも初めてのせいなのか、とにかく私はお酒を飲めばどうなるのか全くわかっていなかったのです。そのうちに宗房さまの姿ぼんやりと霞み、天井や柱がぐるぐると回り始めました。しかしお酒が私の体質に合っているのか、気分は最高に良くて極楽浄土に登ったような気分でした。宗房さまが何か呟きながら私を支えてどこかに向かったのは覚えていますが、それから先は夢の中の出来事のようでした。何をされているのか分りませんが、それはもう何とも言われぬ心地よさで、身も心もとろけてしまいそうでした。

 翌日私は陽が高くなる頃までぐっすりと寝込んでしまいました。目を覚ましたとき一瞬自分がどこにいるのか分かりませんでしたが、暫くしてそこが宗房さまの寝室で、宗房さまの蒲団の中で寝ていることに気が付き、ようやく昨夜の記憶が甦ってきました。私は急いで飛び起きて蒲団をあげ台所に向かいました。台所に板の間には昨夜のお膳が手付かずに並んでいましたが、私はとうとう宗房さまの手が付いたのだと思いました。幸い二日酔いも身体の痛みもなく快適でした。朝餉の支度を調え、宗房さまとお膳の前に向き合った時には、さすがに恥ずかしさのあまり顔を上げることができませんでした。

「お貞、気分はどうじゃ」

 と宗房さまは普段と変らぬ明るい声で尋ねられました。

「とてもいい気分です」

 と、顔を伏せたまま小さな声を出すのがやっとでした。

「それはよかった、よかった」

 と二度一二度とうなずかれた後、急に居住まいを正し、

「わしはお貞が十八歳になるのを待っていたのだ。昨夜固めの盃だとったのは嘘でも冗談でもない。どうじゃお貞、わしの妻になってくれぬか」

 いつの間にか私も両手を揃えて膝に乗せ、宗房さまを正視する姿勢になっていました。

「わしはお貞が大人になるのを待っていたのじゃ」

 と右頬のうすいもに手を触れられた後、

「わしはお貞の骨惜しみしない献身的な気働きに、すっかり惚れ込んでしまったのだ。お貞の焼いてくれる身の回りの世話にすっかり馴染んでしまったのだ。お貞の料理を食べたら他所の料理などまずくて食えないのだ。わしはもうお貞なしでは生きて行くことができなくなってしまったのだ。どうだな、お貞。わしの妻女になってくれまいか」

 私は心の中で私も宗房さまと別れて暮すことなどできませんと叫んでいましたが、声にはならずただ宗房さまのお顔を睨みつけるように見詰めるばかりでした。

「数ならぬ身の私でございます」

 やっと私は呟くように応えますと、

「何のそのようなことがあろうか。この世の中に数のうちに入らぬ人間なんぞいるものか。もちろんご当主からお預かりしているそなただから、ご当主の許可を戴かねばならんが、その前にお貞の気持ちを聞いて置きたかったのだ。お貞、お願いだ。このわしの女房になっておくれ」

 と私にひれ伏さんばかりに首をたれ懇願された時、私はもう耐え切れず大きく首を上下に振って、泣きながら宗房さまの胸にむしゃぶりついていました。涙が止めどもなく滝のように頬を伝い落ちました。宗房さまの胸に抱かれたまま、私は至極の幸せを噛みしめていました。ややあって、

「よかった。ありがとうお貞。こんな爺だがよろしくお願い申す。さあ改めて二人だけの祝言だ。ご酒の用意をしておくれ」

 と宗房さまはまるで少年のようにはしゃいでいました。くすんだようないつものお顔が、ほんのりと赤味をおぴてすっかり若やいで見えました。私が十八歳、宗房さまが二十七歳の春のことでした。

 宗房さまは早速ご当主の良精さまに、私たちのことを申し願いなされました。ご当主は当然のようにこの申し出を即座に承諾され、大変喜んでくれたそうです。ただ暫くは祝言を挙げず、世間には伏せておくことになったとのことでした。それはご当主のご意向か、宗房さまの考えかわかりませんが、恐らく宗房さまは妻子を充分に養えるほどに人立ちできるまでは、公にしたくない気持があったのだと思います。あるいは多情多恨の情熱家といわれていただけに、宗房さまの周辺には解決すべき問題があったのかも知れません。いずれにしても私には何の異存もなく、宗房さまと一緒に暮らせるのなら祝言などどうでもよかったのです。

 しかし隠していてもこの手の話はすぐに伝播するもので、瞬く間に知れ渡ってしまいました。俳諧仲間には酔うといつもの「お貞さん」ではなく、「女将さん」とか「ご新造さん」と呼ぶ人がいました。私はその度に顔を真っ赤にして逃げ回りましたが、内心は嬉しくて嬉しくてたまりませんでした。その頃宗房さまは家臣宅の自分の住まいに「釣月軒」という家号を付けて、俳諧仲間を盛んに招き、句の合評会をしたり、吟詠会や俳諧会席を設けたりしていました。また、自身も句を沢山詠んでいて「大和巡礼」や「薮香物」などの俳諧誌に、伊賀の宗房として投稿していました。宗房さまは旅がお好きで、度々釣月軒を留守にしました。旅は主に京の北村季吟宅を訪れるもので、良忠さまの遺稿の監修や撰集への入集斡旋の依頼と同時に自分の俳諧の指導を受けるものでした。上京の往き帰りには大和の奈良や初瀬を巡り歩いたり、山城の加茂や笠置に遊んだりしているようでした。

 良忠さまの遺稿整理もすっかり終わり、公表されるべき作品はほぽ公表され尽くしたようで、この頃の宗房さまはやや退屈気味の日々を送っているようでした。そのせいか宗房さまは俳諧取材と称して以前にも増して頻繁に旅に出るようになりました。大和の月ヶ瀬梅林や桜の名所笠置山や赤目四十八滝など、日帰りか一泊程度の近間の旅には私を連れていってくれました。奉公人であったこれまでは宗房さまが留守になっても実家に帰ることはご法度で、自由に町に出ることも憚られましたが、

「お貞はもう奉公人でないのだから、わしが留守の時は遠慮なく柔町や一之町に出掛けて行ってもかまわないのだぞ」

 と宗房さまから言われていましたので、私は早速実家や筒井屋に出かけ、母と弟や姉に宗房さまと夫婦の契りを結んだことを知らせました。母や姉弟に限らずこの話を聞いた誰もが心から祝福してくれました。宗房さまの名声は上野の町の隅々まで轟き渡っていたのです。

 夫婦の契りを交わしてからの二年間、そうです、宗房さまが江戸に向かわれるまでの二年間は、私にとって本当に幸せ一杯の夢のような日々でした。一方宗房さまは遺稿整理の仕事がなくなると、新しいものを求める欲望を抑えることができないようでした。俳諧の世界で一旗挙げたいという精神的高揚は極限に達しつつありました。良忠さまが亡くなった時、致仕を許されなかったご当主も、いつまでも宗房さまを飼い殺し同然の状態にとどめて置くことが忍びなかったようです。ご当主は早くから宗房さまの才能を認められ、わが子良忠に代って俳諧の世界で名をなすことを期待されていたのです。そのために遺稿整理という名を借りて、破格の待遇を与え俳諧修業の場を提供してくれたのです。ご当主はそれが良忠さまへの供養にもなると固く信じていたようでした。俳諧の世界では貞門俳諧に代って談林派が頭をもたげてきていました。宗房さまはこの談林派にも関心が強く、俳諧を志すに当っては京都という保守的で排他的な土地よりも、出て行くなら江戸しかないと初めから心に決めていたようでした。

 寛文十一(一六七一)年の冬に入った頃から、宗房さまは釣月軒の自室に籠って俳諧仲間の発句を左右につがえて、それに判詞(優劣の判定と解説)をつける句合わせを始めました。東下に当って江戸での俳諧活動の足がかりにしたかったのです。

 いよいよ宗房さまが江戸に向かわれる時が来ました。武家奉公を辞すに当っては主人から授かった名前を返上するのが仕来りだったので、宗房さまは宗房と武名の忠右衛門の返上を申し出られました。ところがご当主は宗房の返上は頑として認めませんでした。亡き蝉吟さまと競い合って俳諧を吟詠し、あちこちの俳諧誌や撰集に伊賀の宗房として名を高めていたためです。武名の忠右衛門の方は返上が許され、代って甚七郎という通り名を授けられました。甚七郎はその名の通り新七郎に酷似しており、ご当主の宗房さまへの信頼と期待がいかに大きかったかが伺えます。

 宗房さまが江戸に向かわれるに当って、ご当主のご配慮は実に行き届いたものでした。まず津藩から五万石を分与され立藩した久居藩の江戸詰藩士の向井八丈夫さまに、江戸までの同行を依頼しました。さらに京の北村季吟に書状を送り、江戸日本橋本船町の町名主小沢太郎兵衛さまへの紹介を頼んでいます。小沢さまは得入という俳号を持っていますが、その跡継ぎの卜尺さまは亡き蝉吟さまと同格の季吟門下で、しばしば京へ上がっており宗房さまも一度お会いしたことがあるとのことでした。

 出発の日が近づいて来ると宗房さまは大変忙しい日々を過ごされました。まず前年から始めた句合わせに「貝おほひ」という表題をつけ、その写本を何冊か作ることに追われていました。釣月軒に集っていた仲間の発句は拙いものでしたが、それに付ける判詞にはかなり腐心されたようです。当節、繁盛し始めた遊里や劇場などの世の中の動きを巧みに取り込み、この判詞は完全に貞門を脱して談林の先駆的な存在となっていました。句合わせ「貝おほひ」は宗房さまの処女作ですが、これを一月二十五日の菅原道真公の例祭の日に天神さまに奉納されました。それが済んで二月に入ってからは、お世話になった知人や俳諧仲間などヘの挨拶回りに忙殺される毎日でした。その度に送別の宴が持たれるらしく、酔って帰られる日が続きました。私は身体を壊されなければよいがと随分心配致しました。私も着物の新調や仕立て直し、それに日常品や薬草類の荷づくりのため慌しい毎日を送ることになりました。宗房さまは疝気(胃腸病)と痔疾の宿痾を抱えており、大和榛原の薬草園から薬を取り寄せていました。荷物はあまり重過ぎても持ち切れませんので、何度となく詰め直しました。

 やっとその忙しさも一段落した或る日、宗房さまは私をお城見物に連れ出してくれました。お城は四方を山に囲まれた伊賀盆地の北寄りにある小高い丘陵の上に建てられていました。ご当主のご配慮により入城手形を戴いたのは申すまでもありません。お城の境内は入影もまばらで森閑と静まり返っていました。いざ戦いとなれば砦の役割を担うのでしょうが、平時の今はただ粛然と佇んでいるばかりでした。上野城には天守閣はありませんが、回廊で繋がる城郭の白壁が城地のみどりに映え、あたかも鳳凰が羽を広げて憩うふうに見えたことから別称白鳳城ともいわれるとのことでした。境内を巡ると伊賀盆地を一望することができました。北には近江との国境である高旗連山が腰を据え、東には鈴鹿山脈の南端に当る霊山が聳え、それに続く布引山地が横たわっていました。南には遥か彼方に伊賀富士と呼ばれる尼が岳をはじめ大和と国境を接する国見山や具留尊山などを眺めることができました。

「美しいのう。お貞。わが故郷は」

 と感嘆の言葉を発せられた後、宗房さまは、

「お貞、わしは江戸に下ってきっと立派な俳諧師になってみせるぞ。お貞とは暫くの別れとなるが、生活の目処がついたら一日も早く呼び寄せるからな。それまで辛抱しておくれ。なあお貞」

 と私の名を慈しむように何度もお呼びになり

「それにしても有難いことよ。ご当主はじめ皆さんの心遣いは。わしは安心して江戸へ向うことができる。季吟先生のご尽力で町名主の小沢さまの下で働けることもほぼ決った。そなたも身体を充分に自愛致して、元気な姿で江戸に出てきておくれ」

 と言った後、懐から一枚の短冊を取り出して、

「お貞との別れにこんな句を詠んでみたのだ」

 と、その短冊を渡してくれました。そこには、

 

 雲と隔つ友かや雁の生き別れ

 

 という句が詠まれていました。

「友かやは別れて行くのは友だろうか、いや違う。それは紛れもなくそなたのことじゃ。お貞との生き別れを惜しんで詠んだ句じゃ。お貞、それがわしの形見だ。大事に仕舞って置いておくれ。それにしても別れは辛いものよのう、お貞」

 と言って私の手をぐっと握り締めてくれました。私は嬉しさと別れの辛さが入り交った複雑な気持でしたが、目頭が焼きごてのように熱くなり、大粒の涙が頬を伝って止みませんでした。

 それから数日後、宗房さまは伊賀上野を発たれました。長野峠を越えて一旦久居に入り、そこで向井八丈夫(俳号卜宅)さまと落ち合い、名古屋に出て東海道を一気に江戸に向うとのことでした。(つづく)

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