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浅原六朗永 田 浩 幸
一八九五年(明治二八年)二月。長野県北安曇郡池田町で生まれた浅原六朗は、五歳までこの町で育った。浅原という家は池田でも古く、池田の三人衆といって中心的な旧家だった。過去帳を見ると三百年ほど前までの記録がある。浅原の家は一丁目にあった「飯田屋」という造り酒屋で、かなり裕福だった。彼の父、慈朗はロマンチストな空想家で、この地方の名士であることをいい事にし、池田で最初に印刷所を始めて自慢の漢文の本を出版したりしたが、銅の鉱山に手を出し、だまされて資産を失った。浅原は一人、五歳の時、八坂村大塚の叔母の家に預けられた。総二階の大きな家だった。彼は三日三晩、叔母の背中で泣き続けた。叔母の村の小学校では、校長を糾弾するストライキを起こし一ヶ月も抵抗。この学校にいられなくなり、父親が福島から迎えにきて、八坂を去る。十三歳の時だった。かつて彼の父は浴びるほど酒を飲んだが、破産してからはすっかり酒をやめ、キリスト教の信者となり、四十過ぎの身で神学校に入り、そこを卒業して教会の牧師になる。浅原は牧師の子になった。中学の五年間はミッションスクール(私立東京学院)で過ごす。三、四年頃からトルストイ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、花袋、藤村、独歩などを読んでいた。漱石が活躍の最中で、朝日新聞に「行人」を連載していた。ただしミッションスクール時代、今、心に残っている言葉は一つもないと本人はのちに書いている。 大正五年、早稲田大学英文学科入学。岡田三郎、牧野信一と親しくなり、のちに下村千秋と知り合う。大正七年、処女作「鳥籠」を片山伸(ロシアから帰ってきたばかりの当時の中心的評論家であり早大教授)の推薦により有力な雑誌だった「大観」四月号に発表。「鳥籠」の背景には、八坂の山をわたる小鳥への思慕がある。その少年時代、二人の姉が胸の病で相次いで亡くなっている。 翌年の大正八年、早大卒業。実業之日本社に就職。サラリーマン生活が始まる。やがて「少女の友」主筆(編集長)になる。「少女の友」に浅原鏡村のペンネームで作品が次々と載る。深井貞子と結婚。だが特記すべきは、やはり童謡「てるてる坊主」の誕生である。その年、二四歳の時に作詞、二六歳の時に「少女の友」六月号で歌詞とともに中山晋平の曲も発表になっている。晴天を祈って、てるてる坊主をつるす風習は、中国から伝わって、江戸時代には全国に広まった。「私が子供のころ、てるてる坊主を軒下に下げた記憶はない。しかし古典童謡として、広く歌われていた。それが浅原先生と中山晋平先生によって、譜曲を与えられ、広く知られるようになったのは確かだ」(元池田町教育長、仁科宗一郎)。てるてる坊主の歌碑が最初、松本にできたのは、雑誌「少女の友」の編集をしていた時、松本城から眺めたアルプスの夕日の美しさに魅了され作詞した、ということに、ちなんでいる。 てるてる坊主の起源を調べれば、元々は中国から入ってきた風習である。日本では江戸時代中期にすでに飾られていた。『嬉遊笑覧(き ゆうしょうらん)』という本には、晴天になった後は、瞳を書き入れて神酒を供え、川に流すと記されている。童謡「てるてる坊主」。晴れたらご褒美をあげ、そうでなければ首をちょん切るという趣向には、てるてる坊主の形代(身代わり)としての伝統が生かされているというが、現在、三番の「首をちょん切る」という歌詞は残酷ということで、放送する際はカットすることも多い。 昭和二年、浅原は三二歳の時、唯一の詩集「青ぞらのとり」(フタバ書房)を刊行する。この詩集で「てるてる坊主の歌」は「てるてる坊主」に改題され、四番まであった歌詞の一番をカット。詞の最終部も改める。今から三年前、池田町の愛生堂医院長らの尽力により詩集「てるてる坊主の歌」が発刊された。この詩集により今、私たちが浅原の詩に触れることができる。ちなみに詩集の装丁は松川村在住の成瀬政博である。氏は長年「週刊新潮」の表紙を担当している。私事だが家族ぐるみの付き合いで、私の本も二冊装丁していただいている。 詩集の解説を書いている連句人の浅沼はくは、浅原の詩は童謡的詩篇、モダニズム詩篇、浪漫的詩篇に分かれるが共通点はありそう。それぞれ春夏秋冬の季節感が生かされているという。五つ好きな詩をあげるとすれば、「てるてる坊主の歌」「夏を待つ」「短唱」「思慕」「わかれ」あたりか。 「青ぞらのとり」を出版した同じ年、浅原は劇的に変化する。童謡詩人を捨て、「サラリーマン小説」作家に変身し、やがて流行作家になる。その出世作「ある自殺階級者」を雑誌「新潮」に発表、評判を呼ぶ。翌年、実業之日本社を退社。九年あまりのサラリーマン生活が終わり、作家活動に入る。 ここで浅原の関わった同人雑誌を振り返ってみる。二四歳の時、牧野信一、下村千秋らと「十三人」を創刊。三年後、資金難で三号で終わる。大正一四年、短編「風船」を新潮の中村武羅夫(むらお)の力で発表。その年の夏、中村を中心に「不同調」が発刊。「不同調」は三年で終わり、やがて「近代生活」が始まる。この顔ぶれには、当時の新思想運動としてスタートしたばかりのプロレタリア文学のメンバーも入っていた(大宅壮一など)。「近代生活」の頃、浅原は思想的に悩んでいた。マルキシズムを肯定も否定もできずにいた。悩める中間層として、「ある自殺階級者」、「ビルディングと小便」、「生存のアスペクト」、「青きドナウ」などの小説を書いた。資本家にも労働者にもなれない青白きサラリーマン階級の、時代の煩悶が文学的に表現されている。「近代生活」の中頃、この雑誌を拠点に昭和五年、新興芸術派倶楽部が結成。主なメンバーは浅原、龍胆寺雄、吉行エイスケ、久野豊彦、中村正常(まさつね)たちだった。彼らは当時大流行していたプロレタリア文学に対抗した。中村武羅夫の論文「誰だ?花園を荒らす者は!」は彼らを勇気づけた。 新興芸術派は都会享楽派文学、そしてエロチシズムとナンセンスがトレードマークといわれる。モダンガールである。そもそも辛い現実よりも、夢見がちの方が、労働者の慰めだったりする。それなら(労働者ばかりがでてくる)プロレタリア文学に抵抗すべきではないか、ということである。その後、新興芸術派も終わりに近づくと内部分裂し、浅原は久野、吉行らと「新社会派」を興す。新興芸術派への抵抗、訂正運動だった(浅原談)。それは「単独個人を否定して、社会個人を、あるいは環境個人を主張しよう」というだけのもので、実りの少ない運動として終わった。実践作としては「混血児ジョオジ」などがある(磯貝英夫)。
浅原には百冊以上の著書がある。主は小説だが、処女作の「鳥籠」と最後の小説「憑依(ひょうい)」だけ内容を紹介する。 「鳥籠」。少年三吉は、お手伝いとして同居しているお民に甘えていた。そのお民は村の弥作と関係を持っていた。その場面を三吉は目撃していた。お民は三吉に鳥を買ってやる約束をする。お民が妊娠した。はっきりしない弥作、村人の噂などで追い詰められたお民は死んでいく。 「憑依(ひょうい)」。妻は悩んでいた。主人と五歳の一人息子が真剣に対立している。主人は息子に殺される夢まで見る。妻は易者を訪ね、相談する。妻は過去に二人の男にレイプされたことを告白する。一人は今の主人だ。易者は言う。「霊が憑いている。これを憑依という」。妻は草むらにころがり、もだえ苦しむ。 しかし新興芸術派の時代は、長くは続かなかった。浅原はこう記している。「新興芸術派のふるった頃には、この派のものは、何かの意味で熱病にかかっていた。冷めはてた意志や感情ではなく、その感情も創作力も燃える火に似ていた。文学に必要なのは、この燃える火だと想う。燃える火のうせた文壇や作家は、砂漠の風景のようにわびしい。新興芸術派は、一方においてたくさんの欠点をもっていたが、あの多彩なロマンチシズムと情熱だけは、文学の上の特質として充分だった」。 「僕はなぜサラリーマン小説を書くのか」。浅原はこう書いている。僕は今まで創作でサラリーマンを主人公にして、サラリーマンの生活、その悩み、その歓び、サラリーマンたちの考えている希望、野心などを描いてきた。「ある自殺階級者」はサラリーマンの苦悩と生活を描いたものであり、「一群の象」はサラリーマンの一部の者がもつ野心と事業欲を描いたものである。僕はサラリーマン物を書く作家の一人とされているが、なぜサラリーマンを描くか?それは僕がサラリーマン(実業之日本社で八年から九年)出身であることに起因している。 浅原が流行作家だった頃(昭和四年から九年頃)の文壇のニュースといえば、プロレタリア文学の代表的作家のひとり、徳永直(すなお)が「太陽のない街」を昭和三年の暮れから書き始め、翌年の「戦旗」六月号から連載が始まる。その同じ号には小林多喜二の「蟹工船」の第二回が巻頭に載っている。時をほぼ同じくして、中野重治の「鉄の話」や村山知義ともよしの「暴力団記」などが書かれている。当時「戦旗」は、ほとんど毎号のように発売を禁止されていたが、その発行部数はどんどん増えて、二万部に近かった。それはいわばプロレタリア文学の黄金時代だった。 昭和四年頃、川端康成はどん底のような貧乏生活をしていた。新しいインクが買えず家賃もたまる一方だった。原稿料もほとんど前借りだった。しかしその年の暮れから朝日新聞に連載した「浅草紅団」がヒットした。 昭和四年八月、「改造」の懸賞論文が発表される。第一席、宮本顕治「『敗北』の文学」、第二席、小林秀雄「様々なる意匠」が話題を呼ぶ。 昭和五年、東大一年生の太宰治。小山初代といったん別れたあと、警察に検挙され警察の怖さを知り、酒におぼれ女におぼれた。銀座のカフェーに美貌の女給がいた。淳子である。二人は鎌倉の海に投身して情死をはかった。女が死んで太宰は助かった。 世界恐慌が始まっていた。特に東北地方の農民の困窮がひどく食べるものがなく、娘を東京の売春窟くつに売り飛ばした。こうした世相をリアルに生々しく描いたのが、浅原の早大の同級生、下村千秋だった。「ある私娼との結婚」。中でも「街のルンペン」が朝日新聞に連載されると、大変評判になる。ルンペンというドイツ語がこの小説によって日本中に広まった。 宮沢賢治が、有名な「雨ニモマケズ」の詩を手帳に書き留めたのは、昭和六年一一月のことである。そして昭和八年二月、小林多喜二が虐殺される。
昭和二七年、浅原は中央公論に「憑依(ひょうい)」を発表したが、不評でそれ以来、小説を書くのをやめる。五七歳の時である。「憑依」の不評がよほど骨身にこたえたようだ。「わしは散文は疲れた」と知人に言っている。 四五歳の時に会津八一(歌人。早大名誉教授。新潟市名誉市民)と出会い、短歌に目覚め、四八歳の時に本格的に俳句をはじめた。振り返れば三九歳の時から七七歳までの長期にわたり、日大芸術学部で教鞭を執っている。 昭和三六年五月五日、松本市城山公園に「てるてる坊主」の記念碑が建立。その日のことを浅原はこう記している。 「この碑は山本茂実くん(『ああ野麦峠』の作者)の奔走で、平凡社の社長、下中弥三郎さんが主力となり、西条八十、降旗徳弥松本市長などが発起人になり建設されたもの。私は、妻、長女、次女、および三人の孫たちと列席した。・・・テレビやラジオでも放送され、感激の一日であった」 「それを新聞で見た時、ショックだった」と池田町の本屋、柳沢喜八。「浅原は池田町の出身。いくら何でも池田になけりゃ・・・」町の文化人の集まり「向陽会」が中心になって二年後の九月二一日、池田町の八幡神社境内に童謡碑が建立された。 昭和三九年、句集「紅鱒群」を発刊。池田小学校の校歌を作詞(曲は別宮貞雄)。池田町に浅原文庫ができる。昭和四七年、第二句集「欣求抄(ごんぐしょう)」発刊。昭和五二年、住み慣れた軽井沢で死去。享年八二歳。昭和五七年三月二七日、浅原六朗文学記念館が竣工される。
浅原が最後にたどり着いた自分の居場所=ケレンシア、それは俳句だった。昭和三九年二月、浅原は古稀のお祝いをした。当時の心境をこう書いている。数え年七十になり妻がお祝いをしろという。昭和一九年に戦争で疎開した。数え年五十歳、それまでに本を五十冊出していた。もう他人から注文された生活や人生でなく、自分で自分に注文をつけた生活をし、人生はもう沢山だというまで堪能して、死んでゆきたい。私の俳句は、いわゆる「わび」、「さび」などという風流句境ではない。人生の起伏、人間の陰影とその感情を十七字句の詩情にたくした。裸身哀楽が私の句境か。私の句を案外若いといった人もいる。 評論家の赤塚行雄はこう書いている。「浅原六朗にとって俳句は、最後のケレンシアだったと思う。ケレンシアとは、自分の居場所と決めた領域。そこに立つと、自分に力が満ち、自分が不死身と感じられる場所のことである」
浅原のまわりの作家たちを紹介しよう。 牧野信一。「父を売る男」「ゼーロン」「鬼涙村(きなだむ)」。幻想文学の頂点を築いた。岡田三郎。「三月変」「伸六行状記」。プレイボーイ的破滅型私小説作家。下村千秋。「天国の記録」。ルンペンや私娼を好んで取り上げた、いわゆるルンペン小説の先駆。中村武羅夫。評論集「誰だ?花園を荒らす者は!」(プロレタリア文学を指弾)「明治大正の文学者」。文壇の「大久保彦左衛門」。雑誌「新潮」の名編集長。小説家や評論家としても活躍した。 横光利一(りいち)。「機械」「寝園」「旅愁」。新興芸術派とは一線を画す立場を築く。浅原に俳句を勧める。戦争で日本が勝つと信じていた人で、「戦争責任者」の指名を受け、戦死のような最後だった。大宅壮一。「文学的戦術論」「全集全三十巻」。うわさ話を集め、ゴシップの大コレクションをたくみな包丁さばきで形を整え、味付けをして出した、全ジャーナリズムの寵児。吉行エイスケ。(あぐりの夫)「女百貨店」。新興芸術派、そして浅原と同じ「新社会派」。穂高の劇作家、詩人の清澤清志とダダイズム誌「売恥醜文」を発行。日本におけるダダイズムの先駆的雑誌だった。その清澤清志。「穂高演劇協会」を主宰。息子の清澤哲一郎は早大演劇研究会の中心者だったが、二一歳でサイパン玉砕の一人になった。清澤清志の女婿は、現在「安曇野文芸」代表の清沢稔。詩集「遠い煙」は話題を呼んでいる。 中村正常(まさつね)。(中村メイコの父)「ポア吉の求婚」。新興芸術派の中心的作家。劇作家。新興芸術派の衰退とともに文壇を去る。龍胆寺雄(りゅうたんじゆう)。「魔子」。新興芸術派結成の中心人物。彼の描くモダンガールは人気を呼ぶ。「M・子への遺書」で文壇の派閥性を攻撃したことから、その地位を失う。サボテンの栽培、研究では世界的に知られた。宗田理(おさむ)。「ぼくらの七日間戦争」(宮沢りえの映画デビュー作)。日大の教え子。昭和三四年、高利貸の森脇将光が始めた森脇文庫が「週刊スリラー」を創刊。浅原が初代編集長になるが、宗田がそのあとを継ぐ。
一方で浅原は大学教授として長く活躍した。昭和九年から昭和四七年まで、長期にわたり日本大学芸術学部で教鞭をとっていた。後半学生運動のメッカになった同校。大学紛争が泥沼状態になり三浦朱門や赤塚行雄、その他そうそうたる教授陣が一斉に大学を去った。その中で浅原だけは芭蕉、蕪村、一茶を講じていた。昭和四三年からは、女子聖学院短大教授、帝京大学教授に就任。八一歳まで女子聖学院短大教授を務めた。 少々余録になるが、結婚七年目の浅原にとって家庭、家族とは?彼は流行作家時代、エッセイの中でこう書いている。「僕は妻をもっている。子供(娘)も2人いる(エッセイが書かれた当時)。結婚して七年もの間、家庭人でありながら、良き夫にはどうしてもなれない。良きパパになれない僕である。僕は今も独身時代と同じく、わがままでムーディで節制のない自分勝手な生活をしている。妻が三越を知らなかろうと、帝劇を知らなかろうと僕にとって苦痛ではないのである。外出から帰った僕に子供はよく飛びついてくる。その時子供はかわいいと思う。僕が子供を愛撫するのはこの時だけである。だから家の子供たちは父親の愛はそうした表示しかしないものだと思っている。子供におみやげを買っていったことはほとんどない。子供と散歩にも行ったことがない。僕にとってそれはわずらわしいことなのである。友人が子供をつれて遊びにくると、僕はその男に尊敬さえ感ずる。」 また、こうも書いてある。「僕は乱れた部屋を見ると神経が混乱してくる。『あなたは本当に勝手な人だ』妻は、この言葉を一日に一度は繰り返す。」 また浅原が愛したものと思われるものを考察してみる。ブルジョア的な銀座。モダンな淑女たち。カフェーとカフェーの女(実に多くの人間に接触した眼をしている)。マダム。コーヒー。クリームソーダ(彼はアルコールをほとんど飲まなかった)。新宿のエロシェンコで有名な中村屋。プロレタリア的な新宿。外車を自ら運転しての長距離ドライブ。ジャズ。大相撲観戦(双葉山の相撲も見た)。ギャンブル。花札。煙草。ダンスなど。 浅原語録をいくつかあげると、 僕は一日を書斎にかじりついているような生活はとうていできない。それは牢獄と同じだけの苦痛を僕にあたえるだろう。山国で生まれて東京に育ち、生活している僕は、海の旅の記憶というものがほとんどない。それだけ海に育った人間よりも、海と海の旅に懐かしさとあこがれをもっている。 日大の卒業生によく言った言葉。「世の中に出たらネバるんだ」。「金よりも仕事に心をとらわれなければ駄目だ」。「不誠実な嘘つきの人間で、偉くなった奴もなければ、成功した人間もない」。勝負事について、僕はもっとも多くハナを好んだ。連続四十時間のレコードを持っているのである。ハナのために夜を徹し、暁に二階のガラス窓を開ける。 そして女性たちに関する浅原語録。ある女性が言ってくれた。「あなたの顔は不思議にも美しいわ」。思春期の僕は若い女性のほとんどすべてに対して満々たる恋心をもっていた。僕の一日の生活には、どうしても高速度電車が必要である。二、三件、銀座における新鮮なカフェーが必要である。一九〇〇年を過ぎて生まれた女性との会話が必要である。友人との談論が必要である。僕は創作的衝動を、よく便所のなかで感ずる。創作的ヒントをカフェーで女と話しながら得たりする。恋人と散歩道を歩きながら、今晩から書き出す創作の構想をめぐらしている。
最後に私が感じた浅原六朗について。小説は全体的に寂しい読後感。てるてる坊主の歌の首をちょん切るぞ、という部分と通じるものがある。本人も言っているように、わがままで自分勝手である、と思われる。裕福な家に生まれ、その後経済的に浮き沈みの激しい少年時代を過ごしたため、お金に対する執着心が強い(貧乏な家に育ち、やがてお金持ちを目指した、ある歌手のよう)。貧乏に戻りたくないから「売れる文(小説)」を書いた。母親の愛に飢えていた。五歳でひとり家族と別れている。一五歳で母が亡くなる。一六歳で二三歳の姉を失い、一七歳で二二歳の姉を失う。この悲しみの一連の流れは、浅原の女性観に深く影を落としていると思う。彼の仲間の作家たちは概して不幸な死に方をしている。女性には、ある意味おぼれたと思われるが、お酒を飲まなかったから破滅型作家にならなかった。そして童謡詩、小説、エッセイ、評論、短歌、俳句とジャンルを乗り換えてきたので、生涯筆を折ることもなく悠々自適と思われる人生を歩めた。人間が好きな浅原にとって、数多くの大学の教え子たちの存在が大きかった。人望があったということだろう。教え子の創紀房代表取締役、宮森雅照は、「時代の隠れた巨人」と称えている。 「てるてる坊主」という絶対的な切り札をもっていた浅原は、生涯、それが最後に帰る場所。心のお守りになっていたに違いない。
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